都於郡城(標高約100m)は、南北朝時代の 1335(建武2)年に工藤祐経の子孫伊東祐持が築城し、242 年間日向に君臨した伊東氏累代の居城として栄えました。
城は空堀や土塁をめぐらした中世の典型的な山城で、本丸を中心に五つの城郭(本丸、二ノ丸、三ノ丸、西ノ城、奥ノ城)など7つの山城を構え、義祐の最盛期には日向一円に 48 支城を数えました。
三の丸からは、西方に高千穂峰、眼下に三財川、田園風景、北に尾鈴山などすばらしい眺めです。
また、三財側川面よりの城郭の雄姿は、浮舟の如く映えることから別名「浮舟城」と称され、
(photo by hunaoku)
古歌
「春は花 秋は紅葉に 帆を揚げて 霧や霞の 浮舟の城」
は、安井倉洲が詠んだのではないかと言われています。
都於郡城跡では「都於郡城址まつり」が毎年11月の第2土・日曜日に行われ「高屋山上陵祭」や「都小っ子祭り(武者行列)」等が催されます。
二ノ丸跡
二ノ丸は本丸と空堀を隔てた西側に位置、5つの城郭の中で最も古い時期に築城されたものと思われます。二ノ丸の南側には高いところで約2mの土塁がほぼ原型をとどめていますが、伊東氏の時代には二ノ丸全体に巡らされていたと考えられます。
本丸が二ノ丸と比較して一段低い位置にあることから二ノ丸が中心的な戦略拠点となっていたのではないかと推測されます。
三ノ丸跡
三ノ丸は都於郡台地の西北端にあり、三方断崖をなし、山麓には三財川が流れて自然の外濠をなしています。西ノ城と同様ものみ(斤候)の役割を果たしていたと思われます。また伊東 48 城と連絡するための狼煙台があった場所ではないかと推測されます。
西ノ城跡
空堀を隔てて三ノ丸の南側にあり、眼下に三財地区全体が見下ろされます。
なお、遥かに東諸県地方も望むことができ、三ノ丸と共に眺望絶佳であります。別名ものみ(斤候)城とも伝えられ、外敵からの進入に備えての城であったのではないかと思われます。
奥ノ城跡
本丸の北方には間道と併用した空掘を挟んで奥ノ城があります。ここは城主一族の奥方や侍女をはじめ家族の住居でありました。1577 年(天正5年)12 月落城の際には一族は家臣と共にこの奥ノ城から豊後の方に落ちのびて行きました。
ここでマンショが生れたと言われています。
曲輪
曲輪(くるわ)とは、城を構成する区画で、尾根や斜面に造成してつくられた平坦地です。周囲には切岸や堀、土塁などの防御施設が設けられており、城を簡単に落城させないようにするために多く作られていました
また、平城では濠を掘って、その土で内側に土塁を築き、余土を内部に盛って、外部より高い平場を造ります。このように周囲から進入し難く加工された平場を曲輪と総称します。
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